相摩希望
作:小俣雅史
第十話
家に帰ってから、何もせずにぼくは天井を見つめていた。
いや、正確には物事を考えていたわけで、何もしなかったわけじゃない。
だけど、今は思考に行き詰まって何もしていない。
――突然、静寂だけが聞こえている部屋に電子音が鳴り響いた。
健「ん? 電話か……」
ぼくは携帯電話をポケットから取り出し、誰からの電話か確かめる。
『白河ほたる』
そう、表示されていた。
健「……もしもし」
ほたる「……やっぱり……ダメ、みたいだね……」
健「なにが」
ほたる「……ちゃんと、幸せになってね」
健「…………」
ブツッという音ともに電話は切られた。
数秒の会話が、物凄く長い時間に思えた。
しかし、不思議な程に自然な感覚だった。
ぼくは考えるのも面倒になり、布団に転がると瞼を閉じた。
途端に意識が錘(おもり)に引っ張られるように闇へ沈んでいった。
全ては明日、希望ちゃんと会ってから考えればいい。
第十一話
9時45分。
ぼくは約束の時間より15分早く来ていた。
あの公園というのは、たぶんこの公園でよいのだろう。
ベンチに腰掛け、彼女の到着を待つ。
(…………)
それから、10分くらいが経過した頃だろうか。
俯いたまま待っていると、ふと誰かがぼくの前に立った。
ゆっくりと顔を上げると、待っていた人が佇んでいる。
健「おはよう」
ぼくはとりあえず当たり障りのない挨拶をした。
希望「おはよう……ございます」
彼女は小さく頭を下げてそう呟くと、ぼくの隣に腰をおろした。
それから沈黙が続く。
いまいち言葉が見つからない。
それは向こうも同じなのか、横目で彼女の様子を伺うと、困ったような顔をしている。
仕方なく、ぼくは単刀直入に疑問を尋ねてみることにした。
健「ねぇ」
希望「あの」
二人の声が重なる。
彼女は口をつぐんでしまう。
だが、ぼくは彼女を優先することにした。
健「お先にどうぞ」
希望「え……健さんが先でいいですよ」
健「君が先でいいって」
希望「……君……ですか。わかりました」
彼女は、しばらく迷うような素振りを見せた後、ぼくの目を見据えながら言った。
その真摯な眼差しは、少し圧倒するような勢いがあった。
希望「まず、聞きたいことがあります。私の名前を言ってみてくれませんか?」
彼女はいきなりぼくに質問を投げかけた。
彼女の名前。
健「君は…………」
ここで、ぼくは言葉に詰まってしまった。
なんと呼んでいいのかわからなかった。
昨日は、彼女が『希望』だとはっきり言えたと思う。
だけど、今朝目を覚ますと、空白の一部が戻っていた。
その一部は、ぼくに彼女の名を呼ぶことを拒んでいる。
いや、呼べないんだ。
彼女の名前はわかっている。
だけど、わからない。
答えを返せないまま、ぼくは彼女の瞳を見つめ続けていた。
希望「……やっぱり、あなたは健さんですね」
ぼくによって引き起こされていた長い沈黙が、彼女の唐突な発言により幕を引かれた。
やっぱり……?
健「それ、どういうこと?」
希望「私もわからないんです。でも、私の知ってる健さんは……」
そこまで言うと彼女は口をつぐんでしまった。
しかし、なんとなくその意味を察したぼくは、自分の聞きたかったことを尋ねることにした。
健「希と望……なんのことだかわかる?」
希望「っ!」
その言葉を聞いた瞬間、彼女は表情を強張らせ、弾かれたようにぼくの方を向いた。
彼女の瞳はなにかを求めているようで、切実に何かを訴えているようだった。
希望「……健さん、私は誰なんですか? 私は、誰なの!?」
突然、彼女は何かに恐れるように言った。
首を振り続けながら涙を、それこそ壊れた水道管のように流しつづけた。
希望「私は……私は……どっち? 誰? なんなの……?」
健「…………」
彼女も、たぶんぼくと同じなんだ。
どこからか突然のしかかった、不特定多数の記憶に呑み込まれている。
ぼくの中で彼女が誰かわからないように、彼女もまた自分を見失っている。
だけど……なんにしろ、ぼくの中で確かなことが一つだけあった。
健「たぶん……希望と書いて、ノゾミでいいんじゃないかな?」
希望「えっ?」
彼女、希望ちゃんは涙の跡を残したままぼくの方を振り向く。
不謹慎だとは思うけど、ぼくはその姿が愛しくてたまらなかった。
心の奥底から湧きでる衝動に、ぼくは逆らわない。
希望「きゃっ……け、健さん?」
ぼくは彼女の体を、壊れないように優しく、そして強く抱きしめた。
彼女の小さな体を通して、命の鼓動と心の温かさが伝わってくる。
健「ぼくは自信を持って君の名前を呼ぶことはできない」
希望「…………」
健「だけど、今、ぼくが抱きしめている子は、君だ」
希望「健さん…………」
健「君は……自分の中の自分に戸惑っているんだね。でも、君はどうしたいの?」
希望「…………」
その時、希望ちゃんの腕がぼくの背中に回った。
そして、柔らかな肢体をぼくにあずけた。
希望「私は……希と望……でも、一人の人間。相摩希望」
健「…………」
希望「希でも、望でも、私は健さんのことが好き!」
そう叫ぶと、希望ちゃんはぼくをきつく抱きしめ、嗚咽を漏らし始めた。
ぼくもその体をしっかりと抱きしめる。
そして、彼女の嗚咽は慟哭へと変わっていった。
第十二話・十三話へ続く
第八話・九話へ戻る 小説のトップへ戻る