雨と思い出と……
作:小俣雅史
第一話
「と〜もちゃ〜ん!」
廊下の端から廊下の端へと、それは突き抜けるように響き渡った。
学校の休み時間が生む喧騒でさえもその大声には驚きのあまり一瞬の沈黙を余儀なくされるが、我に返ればその音源は一気に興味の対象と化す。しかしこの学校の生徒は既にこの状況を幾度となく体験しているためすぐに喧騒を取り戻し、生徒達が視線を送った先は音源でなくその声の向けられた先にいる生徒、即ち三上智也だった。
智也は周囲の視線を感じるや否や途端に居た堪れない気を感じ、即座に歩調を速めてその視界から逃れようとしたが、その声に返事をしなかったがことが後に悔やまれるということをこの時点で智也は学習しきっていなかった。
たったったったっ
速度自体それほど遅い訳ではないが、どうしてもその少女、今坂唯笑の足音は軽いものになる。ある意味先天技能とも言えるがスパイや秘密工作員になろうとしているわけではない彼女にとって、それはなんら意味をもたらさないものであった。
だが今回の場合はそれが功を奏したようで、逃げることばかりに専念していた智也は彼女のただでさえ軽い足音に廊下の喧騒が加わり、唯笑の接近を失念していた。
「とーもちゃん!」
どさっ!
「うおう!?」
突然智也の背中には、柔らかくありながら質量感のある物質が衝突し、バランスを崩して智也はそのまま廊下の突き当たりの壁に顔面から突撃した。智也はその激痛のあまり姿勢を正した後も、痛そうに鼻をさすっていた。
「あ、ごめん智ちゃん」
「それだけかっ!」
智也は唯笑のあっけらかんとした態度に軽い怒りを覚え、殆ど無視するように自分の教室に足を急がせた。
「あ、智ちゃん待って、唯笑も一緒にー!」
唯笑は智也は引きとめようと声を張り上げるが、それでも智也が反応することはなかった。
だが、智也は別に唯笑の態度に関して憤怒している訳ではなかった。直接的な関係が無いと言えば嘘であるが、問題は自分自身の驚く程の心の揺らぎに対し、その情念を傾けていたからだ。
既にこの学校では公認のカップルとなっている通り、智也と唯笑は本当に仲が良い。このような光景はいつものことなのだが、最近智也は態度を一変させていることに唯笑や周りはまだ気づいていないようだった。
完全な拒絶。
普段ならば最後は智也も諦めて唯笑と話をすることになるが、最近は無視を突き通す。それは智也の自分に対する抑制であり、自分の中身を極力悟られないようにしている結果だった。
智也は教室へ着くと、誰とも顔を合わせることなく自分の席へと座る。
三年に進級してから親友の稲穂信は退学し、仲の良いクラスメイトだった音羽かおる、双海詩音はクラスが替わり、唯笑までもが違うクラスとなった。
そんなクラスで智也は親しいクラスメイトも見つけられず、休み時間はただぼーっとしながら教室の外を眺めるだけだった。
しかし、最近の智也は休み時間の間でも、授業中でも、とにかく何かすることが見出せない時等は決まって同じ事を考え続けていた。だがそれは最愛であるはずの恋人、今坂唯笑のことでもなく、他の興味を引く何事でもなかった。過去に縛られている自分。かつての失われた最愛の人、桧月彩花、その人のことだ。
自分は完全にそのことを振り切れていたと思っていた智也だったが、やはり彼の根底に根ざしている彼女の存在は大きく、そして強かった。
何もなければ、あのまま大切な思い出として一生自分の深い所に収められていたかもしれない。しかし智也はそれを表層意識へと引き出すまでに至る重大な事件があった。
それは、やはり雨の日のことだった。
第二話へ続く
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